昭和46年12月06日 朝の御理解
御理解 第76節
「人間は人を助ける事が出来るのは有り難い事ではないか。牛馬は我子が水に落ちていても助ける事が出来ぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのが有り難いと心得て信心せよ。」
人間は人を助ける事が出来るのは有り難い事ではないかと。牛馬がと、此処の前半の所は、人間は人を助ける事が出来る。是は信心と言うものはな無くもそうなんですね。信心が無くても出来る。例えば、牛馬では自分の子供が水に溺れておっても助けれる事が出来んけれども、人間が見るとそれを助けてやる事が出来ると。 だから前半の所が普通一般の事が言ってある訳ですね。最後の所のいわゆる、「人の難儀を助ける事がありがたいと心得て信心せよ」と言う所が、是は信心ですね。
「人間は病気災難の時神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのを有り難いと心得て信心せよ」と。是は信心がなからなければ出来る事ではない。と云う事になりますね。信心がなからなければ助ける事が出来ない。人間は病気災難の時に神に助けてもらうのであるからと、信心がなからなければ病気災難の時に、是は信心がなからなければ又は、信心の縁を受けておらなければ出来ない。
いわゆる信心がなされておらなければ病気災難の時、是は特別のおかげの事。信心させて頂いて、是は病気災難の時だけではない。信心させて頂いて信心の道を段々分かって来れば来るほどに神様のいわゆる神の大恩が分かる様になり、その大恩に報いる為に、の働きというかね、それが、人の難儀を助けるのが有り難いという事になって来る。所がその、信心は頂いておっても其処の所の働きが出来かねる、出来てはいないと云う事になると、どう云う事になるとどう云う事に成るでしょうか。
おかげを頂いておるけれども、其処迄高められたものにはない。いわゆる人の難儀を助けるのが有り難いと心得てと言う所迄お互いの信心が、高度、高められて来る。成程、まずは我が身におかげを受けてとか、教えがありますから、我が身をおかげを受けてと云う。そして後に人を助けてやれと仰る様な所もありますけれども、自分自身が、本当におかげを頂いておると云う、おかげの実感が、本当にこういう信心を、皆さんが頂かれたら有り難い事であろうと、云う事になる。
是が、止むに止まれんものになって来る所から、人の難儀を助けるという事。そういう人の難儀を助ける働きが出来る様になってくる。自分が本当におかげを受けておる。自分が本当に助かっておる。本当に皆さんも此の様に助かって行かれたら、どんなに有り難い事になるだろうかと、どんなに有り難い良い社会が生まれて来るであろうかと、そう思わせて頂けれる所迄、やはり自分が助からなければならない。先生にでしたかね皆さんに申しました様に、本当に私の様な人間が世の中に段々出来て行ったら。
いよいよ人間の幸せと云う物は、此処にあると言うことになるだろう。ね。私のような幸せの、私の様ないうならば生き方をするものが、ね、一人でも徐々に多くなって行ったら世の中はそれだけ清まる事であろうと。まあ是は云うなら、私の今の実感なんですよねまあ、人間の幸せというても人間のそ云う生き方と云う物がこういう生き方の中に、こういう生き方を体得させて頂いたら人間は幸福だという事をです、確信出来れる所迄私は信心、いわゆる、おかげをいよいよ受けなければいけないと思う。
第一に信心させて頂いて健康のおかげを頂き、または経済の上にもおかげを頂き、人間関係の上においても信心を元にするならば、もうそこに問題と云う物が無くなる。いわゆる、あい謀りあい信じ合って行けれる。話し合って行けれるね。そういう例えばおかげを、此の例えば私自身頂いておる、それでそう云うおかげを受けておる事をです、人に聞いてもらう。そこから、私は人を助ける働きというのはそう云う様な事だと思う。此処の七十六節の前半の所は人間は人を助ける事が出来ると。ね。
だから有り難い事ではないかと前半の所で言っておられるのは、御理解にあります、人間は勝手なものじゃと仰る様に、人間はまた勝手なものでもあるという事。ね。所謂勝手。または、その前の75節にもある様に「人間は人を例えば殺す事も出来る」と。ね。人間は人を助ける事も出来るその変わり。というのは私はこれは信心のない、故のいわば、表現だと思うですね。それで前後半最後の所の私共はね、病気災難の時というのはです、ね、これは病気災難だけのの事じゃない。ね。
信心をさせて頂いて、いわゆる神の大恩がわかり、またその神の大恩に対して神恩報謝の生活が出来る。有り難い有り難いという生活が出来る。その有り難い有り難いという生活が出来るその事がです、私が助かって折る事ですから、その助かりを持って人を助けて行くと云う働き。そういうまたは祈りこれは、個人個人の御導きとか助けると云う様な物ではないですね。そういう働きそれを例えば世界真の平和とか、世界総氏子の助かりと言った様な、やはり祈りの言葉の中にそう申しておりますけれども。
本当に自分が助かっておる、私が今申しております様に、私自身が助かっておる。私の様な者が世界に段々増えて行けば行く程、世界は明るく清まって行くだろう。ね。問題は無くなって行くだろうと。それで、警察も要らん様になるだろう。兵隊のいわゆる人殺しの材料なんかは勿論作らんで良くなるだろうと云う程の所迄私共が助からせてもらう。金光様の御信心は、私はそこの助かりを頂かなければいけない。ね。
同時になら全ての点に人間の、いわゆる幸福の条件と云う物が、一つ一つ足ろうて参りまして、ね、だから、その、その足ろう来ると言う事がです、ね、世の中の人達が、こういう生き方がある、こういう生き方を、分かってもらったら、という、そういう祈りを、切実に出来れるという事。本当にそういう祈りが、出来ると言う事はです、有り難いと心得て信心せよという事だと思う。
例えば人一人、例えばお導きをする、ならそれもそうなのですけれども、それは、例えば人間は人は助ける事が出来るのが有り難い事では無いかと云うその、信心の無い者でも助ける事が出来るという助かり。ね。そこの人がね、溺れておるならばです、それを例えば救い上げて上げられると云う様な働き。ね。まあ、お金に不自由しておる人があるからその人にお金を貸してあげるというて助けるという働き。
是は信心が無かったら出来んですよ。ね。私は此処にお互い本当にあの、今日の七十六節で分からせてもらいます、信心が出来ていなければ、信心が本当に分かって行かなければ出来ない助かりというか、助かりと云う事、だからそれが出来るのが有り難いと云う事になって来る。ね。それはだから一人自分に力が出来たからその力で人を助けてやるという、人を御導きとそういう事もそうなのですけれども、それよりももっともっと、自分自身が助かって。
自分の様な人間が自分の周囲に世界に段々多くなって行くなら行く程に広まって行く。社会というものがです、いわゆるそれがね、私は切実に祈れれると言う事。それは有り難いと心得て信心せよと云う事ね。口や形でね助けるというのでは無くてです、自分自身がそう私本当にそれが言えれる、祈れれる本当に祈れれると言う事がです、私は此処では人の難儀を助けるのが有り難いと心得て信心せよという事だと思うのですね。
それは勿論信心を頂いて自分が助かった。本当に有り難いから同病相憐れむ、其処に例えば同じ難儀を苦しみ悩みを持っておる人達に対して、それをお導きをする、信心の話をして助かってもらうという、けれどもそれならば信心のなかっても出来ると云う事なのです。ね。例えば本当に自分が飲んだ薬が良く効いたからあなたもどうでもその薬を飲みなさいと。同じ事でしょうが。
私は此処でまあいっちょその、その深いですね、病気災難の時に神に助けてもらうとこう仰るその、此処ん所は病気災難というだけではなくて、信心によらなければ助かる事の出来ない助かりと云う物を私共は頂いておる。いうなら心に何時も成就、座岳というですか、神様のあり難さと云う物を何時も自分の心の中に信心の有り難さと云う物を讃えておれれると言う事。ですからどういう問題が起こって来てもそれを問題としない。有り難い物だけにしかしていけない。ね。
そういう心の状態を本当に信心によって、頂くと云う事が信心によって助かると云う事だと私は思うです。信心によって病気が治った。信心によって経済が立ち直ったという助かりならね、私は信心が無くても助かられると思うんです。例えば現代医学を持ってするならね、または人が溺れているものを見て、人間が助けてやる事が出来るというそういう助けてやるこ事出来るというなら、信心がなかっても誰でも出来るという事。
その代りにね、人間は勝手なものだと云う事になったり、人を殺す事も出来るというのであったり、と云う様な物もその中にあるわけです。けれども純粋のいわゆる神様のおかげでいう、病気災難の時に神に助けてもらうと言う事は、何時もこういうご守護の中にあるのだと。と云う事を心得ていうのである。そういう例えば祈りが切実に出来る所までの助かり。どうでしょうか皆さんの祈りの中にそれを本当にそれはやはり、自分がおかげを頂かなければ自分が助からなければ助けられない事でしょうか。
なら私二十年前、二十何年前、なら時にはもうとても、そう云う事は出来なかった。ただ、人を助ける事が出来ると云う事はお導きをしたりなんかち云う様な事であった。信心の話をするというだけの事であった。そして、自分の様な人間が世の中に増えたらなんて思わなかった。自分の様な人間が増えたら返って世の中が濁ごって来るだろうと云う様な自分であったと云う事です。ね。
例えば商売をさせて頂いておる時には、もうそれこそもう、常に自分が儲かればいい、自分が儲かる事がおかげだと言った様な心という時代ですからそういう、人間が多くなったら大事。それこそ事故主義に固まってしまう、もうそれだけがおかげであるですねいうならね。段々信心が分からせて頂くだけでは無くて、信心を自分が身に付けて行く事によってですね、本当にこの神様のおかげを頂かなければ。
人間の本当の幸福はあり得ないと言うところまで高められてその、おかげの頂けれるためには自分自身がが此の様なじょうたいにならなければならないと。ね。言う時に此の様なじょうたいになれ、なれたらです、世の中の清まって行く、人が助かって行く問題が無くなると言う所までのおかげを頂かなければね。そういう意味での助かりを信心によって頂かなければ。ただね。
昨日は福山の方達が何時もの大祭の前の講習が出来ませんでしたから、信心実習会。私を中心にして、三和工業ですか、いわば古屋さんの設計によって出来ております。あそこはか堅粕と云うですかね、福岡の材木ですけども、そこにもう云うならば荒れ果てたお寺さんがありますけれども、そのお寺さんの中にはね、国宝級の仏様が何体もあるわけ。是はもうそれですから、そう云う物を安置するというか、そう云う物を観覧料をとって、人に見せると言った様な事を言ったり、お国から補助を受けてね。
その大きな保管をするとかね、それが出来ておるそれが見せて頂きました。まず其処へやらせて頂いて、九十になるそれは大きな荒れ果てたあのそのお寺さんにたった一人、尼さんがおられるだけなんです。信者と云うものがないけれどもその中身に安置しておる仏さんが素晴らしいからもうその、それをお国で保管しようと云う様な働きになって来た訳です。そのお坊さんが中々霊能者の方らしいですね。それでそういうお伺い事やなんかに見える人の事によって、生活が出来ておられる、と云う様な方らしい。
そのお婆さんの尼さんに合わせて頂いたのですけれども、いわゆるあの密教ですね。真言密教ですから。お大師様ああいうその仏様が沢山おられます。そして其処が例えば病気なら病気をする、災難なら災難が起きて来た時にです、其処にお伺いに行ったり、お願いをしてもらったり、お伺いをしてもらって助かると致しましょうか、ね、自分がそこで助かったから、また人に伝えてですたい、ね、もうあそこに行くと、病気いわゆるおさわりがあったり、なんかと云う様な事をまあ言われる訳ですね。
密教ですから。是は御霊様がすがって御座るとか、そう言う風な意味の事だと思うのです。ですから、お参りしてみなさいというてまあ、その次の人も、それで拝んでもらって、呪いをしてもらって助かったとしましょうか。果たしてそれで、世の中が清まって行くだろうか。だからそういう意味の助かりならば私は今日、いわゆる人間牛馬が出来ない事が人間に出来るというだけの事であってですね、本当の世が清まるとか助かると云う事にはならないでしょうが。
いうなら其処に、例えば神恩報謝の生活がその、出来ると言った様なそれは大変な、千何百年も昔からお寺さんだそうですけれども、そういう生き方ではですね、あの、助ける助かるじゃないと云う事なのです。ね。あっちのお婆ちゃんにお伺いをしてから助かった。御祈祷してもらって病気が治ったと。だからあなたもと言うてなら、その助ける働きではありますけれども、私は今日はそういう意味ではないと。
いうならばだから教祖金光大神の御教えによらなければです、いうならば助かる事の出来ない、いわゆる天地と共に、天地がバックであるという、天地の神の信用を受けて私達が幸せになって行くと言うその幸せになった時に初めてです、まあ、幸せになるという、そういう道が付いたと云う事なんです。ね。いよいよ助かって行けれるというその、そういう道が付いた。そういう助かり、そういう助かりが出来る時に、はあ私はまだ信心が一年しか頂いておらん。
合楽ではまだ半年にしかお参りにならんけれどもこういう道があった。こういう教えがあったと。この道を辿りこの教えを行じて行くならば人間が幸せになり、清まって行くと云う事が分かるという助かり。ね。ですからその助かりと云う物がです今度はそれが祈りになって、強烈な祈りになって来る。ね。そういう事によって助かって行くと云う事。そこをまあ参観させて貰って丁度もう昼になりましたから博多でお食事をさせて貰った。博多でまあ折角ですから。
ふぐ料理でも頂こうと言う事であっちこっち手配をされたらしいです。私知りませんでしたから。所がどっこも昨日はしけで魚が無かった。もう何時もある、いけすなんかがあるとやってからそれこそ生け鯛のですか、生け鯛なんか出来る店も博多にはあるのですけれども、そう言う所も魚が無かった。それでまあ皆さん色々相談されて話し合って是はあんたどうするのち、言うごたる風になった訳です。それから大橋の事を思い出してから、秋永先生の所に電話をかけたらしいです。
秋永さん、色々あの、交通ですか、あれの関係で色々な店を知っておられた。そんならあの、唐津のまで行きなさい。唐津まで行けば良いお店があるからと。そいで色々連絡うを取って頂いたら、唐津にはあると云う事。ありゃまた福岡から唐津までも本当にそんな事なら、止めようと私はきつかけん止めようち私は申しましたら、まあ、いえもう私がこう云うちょるから、福岡からこがしこ見えるからと。
そりゃあんた向こうが言うておって頂いてあなた、そげん事ならしよん無かたいと云うて、やっとかっと付いて行ったのですけれども、本当に行って良かったと思いました。行って良かったというのがね、成程そりゃもう、そりゃもう私はあんなものは始めて見ました。大きなイセエビが沢山泳がしてある。鯛が泳いである。ひらめが泳いである。私はひらめがこげんして見るとは初めて見ました。こげんも泳がんですよ。ひらめちいうやつあ、こうこうして泳ぐのです。面白い面白い。
こんな大きなね、ひらめが。それを上げては料理してくれる訳なんですよね。だからそれもさる事がら、そこの色々唐津に私の北京時代の友達が相当大きな割烹料亭をやっているんです。もう私があちらへいって、店を選んでいましたら、それこそ腹かく様な、昔のいわゆる、飲み友達なんです。北京時代からのその、飲み友達なんですね。ですからけれども、行こうとも思うていなかったけれども、その話がたまたま出らせて頂いたら、ありゃあちらのお母さんは、この頃亡くなられましたよ、ち云うけんですね。
私は本当にびっくりしました。もう本当にちょっと、幼稚園に行っておる孫を送って行って帰って、ちょっときついと云うてから、ちょっときついと云うて、寝たらそれきっりだったそうです。それを聞かせて頂いてです、はあ本当に、昨日唐津に来なければ、ならない訳があったなあと私は思いました。ね。あちらでお店を買ってそれから新館も出来て、相当沢山の従業員を使ってやっておりました。中々のやり手です。所がその税金で困って、椛目時代にお金を借りに来たのです。
時に丁度お金が無かったですから、丁度あの百円がつばっかりが、あのちょうど一万円ありましたから、其の時、相当金が五万くらい金が要ると云う事だったんですよ。けれども兎に角、是だけしかなかっちゃから、是だけ持って行かんのち、是だけで、おかげを頂くがち、私は言うてから、その一万円札を出してやりました。一万円札束ですたいね、百円のお札束。それから、まあ、一年くらいしましてからでしたけれども、返しに参りましてから、それの前に手紙が来ました。
兎に角おかげを頂いた。兎に角税金をね、それを丁度持って行った訳です。其処えかねを包んでもって言った訳です、そしたらもうやぁやぁ言うて、督促に見えよったその税務の人が、若竹という、若竹さん無理を言うてすまなかったね。ち言わしゃった。ね。だからそれは、五万円か十万円かと思いなさったそうですよ。こっして包んじゃるのですから。こちらが云うておるだけの金を、持って来たと思うたもんだから、若竹さん無理を言うて済まなかったというてから。
そのそれがあなた、あの払うしこ無かですよち、実は私は久留米の方の昔の友達があって、その方はあの宗教家なのです。そこのお賽銭をからこうやってしてもらって、ようやく是だけ出来ましたから、是だけ持ってきたからというて一万円出したと。そしたらねその一万円だけで良い、と言う事になったのですね。そういうおかげを頂いた。だからそう云う事がありますから私があちらに参りますと、もうそれはもうそれこそお店を上げてからサービスをしてくれるんです。
以前秋永先生やら、三橋先生やらの時代にも一遍、たまたまあの皆であそこに行く時、皆んなこう見に行こうち、ほんにちょっと見るだけ行って、夜中に向こうに行きましたけれども、もうそれこそ大サービスでした。この頃からは私共に2、3年前に福岡へ信心実習会に行った時もやっぱりあの、ちょっと電話を掛けたら家にはもう、唐津に来とって寄らんならば、家の前は通らせんよとやかましく言うて、店の表に立って待っておってくれて、そのサービスするち云うくらいなもう仲なのですよ。
ですからそういう時にすら縋って頼っておるのですから、御霊が私に縋がっておらんはずはない。私に願っておらんはずはないと、昨日私は思いました。それが今日私は申します様に、私自身が霊肉共に助かっていなかったからです、そういう働きになって来ないのです。人間だけになって凝ない事になるのでしょそういう、例えばね、そういう働きのまあ、出来れる信心をさせて頂こうとこういうのですから。私が助けようと思うて助けるのじゃない。神様はこれはもう私でなからなければ助ける事が出来ない。
そういうそのまあ、例えば、目には見えない働きと云う物が、起こってきて、ね、そう云う物も、私が今申うします様に、私の様な、こう云う助かり、私の様な人間が世の中が段々段々、人間氏子の上にそういう助かりが出来る人達が多くなって行けば行く程世の中がどんなに有り難い清まった事になって来るだろうかと思うからそれが強烈な祈りになってくる。それがいうならば世界真の平和を祈り。
世界総氏子の難儀を本当に願う、ね、それが私自身が助かっておる。助かる道が付いておらなければそ、れはいくら世界真の平和を願った所で、総氏子の助かりを願った所でそれはそういう働きになって来ないと私は思うのです。ね。ですからそういう働きにならせて頂くの信心の軌道に乗らせて頂くと、こんな軌道さえ間違えなかったら、此の生き方でさえ行けば幸せになれるぞと。
また其処に体験を積んで行って、それを確信できる、信じて行けれる信心生活が出来る。そこからは自ずと私はね、人を助ける働きの祈りと言うものがです、出来て来ると思うです。今日はそういう意味でね、七十六節を前半と後半に分けて同じ言葉で、人を助ける事が出来るのは有り難い事ではないかと初めて言っておられる。人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよと言っておられる。
けれども前半の場合はです、是はね、私はこれは人間なら誰でも出来るという働きの事。又はそれはどういう信心でも良い、それはなら、昨日のお大師様の、ならお大師様の月参りと言った様な事でも、それでは本当の神様の喜びを頂く様な助かりと言う事には繋がらない。信心をしてと云う物、真の信心をして、いうなら、金光教の信心をさせて頂いてそして、私が頂いている様な所を分からせて頂いてこそ、初めて祈れ、または初めて助ける事の働きが出来る。
人の難儀が助ける事が出来ると言う事を有難いと心得て信心させて頂くと言う事になると思うのです。ね。いわゆる純粋なそうした助かりを願い、求めていく。自分自身もその助かりに、なって行くと、其処から初めて人を助ける事の働きと言う本当の意味においての、人の難儀を助ける事が出来るという、ね、いわゆる真の人間を目指すというかね、真の信心を目指すというかね、そういう目指す所からしか、この働きが出来て来ないという風に今日は聞いて頂きましたですね。
どうぞ